2025年ということが騒がれている。
2025年に何が起こるのか。
まず2025年7月5日という日にちも独り歩きしている。2025年と調べれば 「2025年 やばい」といった関連ワードも出ることや、「2025年に隕石」や「2025年7月5日大地震」、などのワードもあり、2025年になんらかの崩壊するような自体が起こることを危惧する人もいる。
また2025年といえばメディアでも太陽フレアが活発化すると言われている。はたまた人々が意識を変えていく時だと語る人もいる。
まず、2025年7月5日という日付には捉われないようにしたい。
2025年の暑い時期、に何かがあるとする。
その”何か”で幸せが訪れると期待する人もいれば、災害等の訪れかと恐怖におののく人もいる。
それぞれの世界観で今を過ごしている。
キリストはかつてこういったと言われている。
”この世の終わりに、また再臨する”
”この世の終わりは、この世の始まり”
”その時に地球は完成する”
そして、その時に備え、目を覚ましていなさいと語っていたと言われている。
この世の終わりとは?何度もこれが世の終わりの始まりかと言われてきたことはたくさんある。
今起きている地球の異常も、過去や色々な”立派なデータ”や”論理的な思考”に基づいてどうせ過去にもあったことだと思うとする。だが本質はそこだろうか?
もし今が世の終わりでなかったら目を覚ましていなくていいのか?もしキリストが言っていた事が本当だとして、世の終わりにだけ目を覚ましていれば、いいと思っているのだろうか?
きちんとしていなければ誰かが(他者やはたまた神が)許してくれないという話ではない。自分がそれでいいのかということだ。
気づかぬうちにふてくされている自分に気づき、思い込みを捨て、本来の自分の良さを取り戻す。
目を覚ますのは今ではないか
目を覚ますとは
多くの人が本来の自分の良さを失っている。
それはこの世界のシステムにより多くの人がお金に操られ、時には悪役を演じ、本来の自分を失っているからだ。
サービス業で例えるなら、何かのお店に行けば店員さんがこれも必要、あれも必要とお世話をやいてくれることがある。
でも本当にその人に必要なものを考えて物をすすめている人はあまり多くない。
いたるところでそのような光景は見受けられる(代表的に言えばガソリンスタンド、車販売、携帯ショップなど)。
これは上記のようなBtoC(企業対一般消費者)の例えだけでなくBtoB(企業間取引)の世界でも置き換えられる。
本当にその人のために必要なものを考え、おすすめすること、行動することができない。誰もが(多くの人が)お金のために悪役を演じなければいけない。
こんなのではお金という寄生虫に操られているのも同然ではないかと思わないか?
逆に言えば、利益のあるサービスや物を多く獲得できる人ほど表彰される場合もある(システムの話で、表彰された人が悪いと言っているわけではないよ、表彰された人の頑張りでもある)。
これでは心ある人ほど押しつぶされていく。多くの人が本来もっている繊細な自分の心を見ないふりをして、納得できる落とし所を見つけて生きている。
人々はこんな世界を当然だと思わされている。
地球の終わりとは
人類とは生まれたその瞬間から地球とともに終わることが定められている。
宗教的に言えば、人類が知恵の実を食べたといわれている(知恵を得た=人類誕生)瞬間とともに地球の終わりは決まっている。(知恵=文明)
知恵を得た生き物は必ずその星(地球)のエネルギーを搾取するからだ。石油を掘ったり、水資源を汚したり、木材の利用など。地球の物質は全てが形を変えて見せているだけである。人々が毎日食べている食事も、地球の何かのエネルギーが循環して形を変えたものだ。
そしてこの資本社会というシステムは大きな罪を犯している。これはお金が人の上に立つということだ。人がお金の軍門に下るということでもある。一見平等に見えるこの社会システムは人々にも地球にも大きな歪みを生じている。
例えばコンビニやスーパー、デパ地下など毎日並んでいるお弁当。毎日お金のために必要以上を供給しつづけなければならず、食べられなかったものは廃棄されていく。
そして毎日休まず稼働しつづけなければいけないこの経済活動システムがために、毎日毎日車は行き交い(出勤の方や、荷物を配達される方々)ガソリンは消費され、大量のお弁当や食材ががいたるところで生産され、廃棄されていく。
お金のために生きなければならないこの世界に疲れてはいないだろうか?
この世に飼い慣らされている人にはわかりづらい話だが。
この地球にも人の心にも埃がずっと立ち続けている状態を鎮め、変えていかねばとは思わないか。
2025年、新地球が訪れる
この地球は限界を迎えている。人々の欲と共に、ビルも伸び、経済の歯車を回してきた。
経済の混乱、異常気象、天変地異、分断、人が住める範囲の縮小、天体の異常などが終わりへと向かっているサインになる。
そして、人々が希望を求めるなか、新地球の到来は、世界に伝えられる。
そして、新地球は”あの世”と呼ばれるものではない。
そして、新地球とはイエスキリストの言った、神の国だと私は伝える。
キリストはなぜ、神の国は”あなたがたの間にある”と言ったのか。それは、愛ある、人間本来の生活に立ち戻った者しかその門をくぐれないからである。
キリストはなぜ”再臨”と”世の終わりの前兆”を教えていたのか。それは、終わりの時に目覚めていられるようにするためである。
”私はキリスト教徒ではないからな”、と言う者よ、私もキリスト教徒ではない。”キリスト教徒”とか”仏教”とかを区別するものが、”キリスト教”を生み出している。すべては同じところに繋がっている。
キリストを信じる者よ、”キリスト教”の言葉ではなく、キリストがかつて放った”言葉”を受け取るのだ。現代のあらゆる宗教家も、私がキリストと名乗るものも信じてはいけない。
信じるべきものは、希望と共に訪れるからである。