無知を自覚する強さ 無知の知の本当の意味

私たちは無知でいるということを自覚することが難しい。

それは自分は”学がないから無知さ”と思っている人とも違う。そして”偉い人の言っていることは信じるのさ”と思う謙虚さも違うことになる。

またあるものは他人を見定めるために一般人は”このくらい”という基準を勝手に無意識に作り上げていく。そして自分の知識の段階は”このくらい”と自分を作り上げて他人はそれより下か上かで物事を判断してしまう人もいる。

だからこそ、無意識に知っていると思い込んでしまっていることはたくさんある。

例えば北朝鮮のミサイル。誰かが北朝鮮は本当にミサイルを発射しているのだろうか?と言えば色々な反論が返ってくる。”国が発表している””テレビで言っている””軍事評論家がミサイルで威嚇せねばならない内情を解説していた”など現実的で、論理的な答えはたくさんある。

もちろん本当に発射されているものもあるかもしれないし、もしかすると数回あるとされるうちの何回かは本当にはないかもしれない。

だが、本当に見てもいないものを信じている状態こそ、その実、本当のところ現実を見ずに眠らされている状態ではないだろうか?

私はミサイルを本当に発射する段階からきちんと確認してはいない。

北朝鮮のミサイルはひとつの例えで、北朝鮮のことに固執しているわけではない。

世界の危機を煽り、そして国民は一生懸命働いたお金をその防衛費として喜んで献上する。もしそれを狙って一部の支配層がやっているような状態があったとしたら。

こういうことを言うと陰謀論というレッテルが貼られる。そして一般的に人は上記のような論題が投げかけられるとミサイルは”発射している”もしくは”発射していない”のどちらかの論争になったり、”陰謀論者”とか”常識人”だとかどちらか一方に偏り、お互いを攻撃しはじめる。

私の周りやこの文章を読んだ人たちには中庸(中立)でいてほしいのです。

メディアなどテレビや政治家が言っていることを単純に鵜呑みにして、防衛費は上げなければ!と声高々に叫んだりするのではなく、本当だろうか?本当に自分は答えを知っているんだろうか?という視点は大事ではないだろうか。

上記のような状態を一部の支配層が作ろうとすれば作れるという可能性は認識した上で、物事を判断する必要はあるのではないでしょうか。

自分の頭の中でなんとなく、ぼんやりと信じている権威やメディアやテレビを見て、知っていると思い込むこと、その場合どちらかに偏り危険性が見えなくなる状態を自覚すること、知っていると思い込んでいることによるデメリットを自覚してほしいということです。

”実際に見ていない””知らないものは知らない”と思えるのは強さと最大の賢さだという事です。

これは世の中全てのことに当てはまり、本当は見ていないのに、信じてしまっていることに危険性があるということをお伝えしたいのです。

人々が信じていると思っている根拠自体が揺らぐことはないのだろうか?

こういった考え方、それはこれからに必要になってくる。

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