この2つのが欲求がなぜ2重苦というのか。それはこの2つは脳に対して中毒性を持ち、ループにはまる作用を持ち、コントロールを失うと重さと苦しみしかないからだ。
更にこの2つには、自暴自棄、自己破壊的な行動、そして突発的な欲求というという共通点がある。
それに振り回されていくと、自分自身がどんどん重くなっていってしまう。
新地球に向かうためには、たった2つのこの欲求は軽くする必要がある。
また、以前、善と悪の違い、良い悪いの判断基準はその人の行動原理(行動の理由)に愛があるのかどうか、それがエネルギーが”軽い”のか”重い”のかだと思うと伝えました。
そしてこの表題の2つの欲求はその名の通り”欲望”と化してしまった場合、人をとても重くする。
この記事の目的は人を欲の重さから脱出させ、人のエネルギーをひとりでも軽く、綺麗にすることだ。そして地球全体を少しでも軽くすることだ。
後悔しているもの、自暴自棄になっているもの。変わることに遅いということはない。この2つが欲望と化した先には苦しみしかないということを理解せよ。苦から抜けるために、軽い自分自身を取り戻せ。
遅いということはない。今すぐに変わるんだ。
なぜ人は(君は)怒るのか 怒りが欲望になってしまうと【怒りの章】
自身の理性によるコントロール下の上で、怒りを使うことが必要な事も時には、ある。
例えば、
- いじめられていたものが、勇気を振り絞り声を上げた場合。
- 悪習に対して、声を挙げた場合。
- 何かを守るため、人を守る時。
それでも、暴力だけは良くない事だ。
だが、怒りが日常のものになってしまう人がいる。怒りの制御を失い怒り自体が欲望と化してしまう場合がある。
そういう状態の人は”怒るための理由”をいつも探している。
怒りで人が言うことを聞いてくれることもあるかもしれない。怒りにより相手をコントロールが出来た、もしくは勝ったと錯覚した瞬間、怒りという脳内麻薬の中毒にかかる人がいる。
その状態がまさに怒りが欲望と化している状態になる。そうなってしまうと怒りのループにはまっていく。
怒っている状態というのは、脳にとって、とても負荷がかかる。怒りは鬱の原因にもなる。怒る相手を探しているので、他人のちょっとした態度を勘違いして怒ってしまっていくような状態になってしまうんだ。
例えば運転中、本人以外から見れば全然そんなことはないのに、ちょっとした動きを勘違いして、あの車に”煽られた”と勘違いして怒る。
そういう人だって中には、根本は”良い人”を探しているだけだったりする。そういう人は人生の何かしらの嫌なことが出来事がきっかけで、他人に対して無意識に失望していたりして、少し嫌な人を見るだけで”こいつもか!!”との残念さが怒りに変わっている。
もちろん、ただイライラを人にぶつけてしまうのがクセになってしまった人もいる。人によって理由は違うが、何かしらの欲求不満、満たされなさが根元となっている。
この怒り状態が続くと脳は危機と勘違いして、防衛状態を作るため、日常のちょっとしたことでも怒るようになっていったり、勘違いを引き起こして人間関係を壊してしまう要因になる。
この怒りのループの先に幸せはないと自覚することが第一歩となる。このループの先には、人間関係や自分自身が壊れていく先しかない。一時の突発的な欲求を満たすために怒ることで、結局は自分が苦しく、自家中毒状態になっていく。
怒りをぶつけてマウントをとったりストレスを解消することや、他人のノイズに対して怒ること、これら怒りの感情は全て自分を守る為に起きている。究極のことになるが、自分を守ることに価値なんかないと思えたら凄いことなんだ。ただ、自分に価値がないということでは決して無い。自分のことは自分で認めてあげれていればいいということだ。
ストレスにより怒りを当たり散らしているような自暴自棄の状態にある人は、自分がそもそも認められない状態にある場合が多い。だけど、”なぜ怒るのか”を悩む人は、既に心の奥底に優しさがあるということになる。この世界で本来の自分と違う仮面をつけてしまっているだけなんだ。それを認められれば、自分を自分で認められたということになる。その弱さを認められた人はとても強さがある。そして、この怒りのループを抜けられた時点でその人は”お釈迦さま”と言えるような状態にある。
もしくは「俺は(私は)そんな事悩んだり思ったりしないね」という人こそ、自分のことを自分自身が一番わかっていなかったりする。脳で考える表面的な思考や感覚に騙されるな。心の奥底にチクチクと溜まっている苦しさがあるなら、それは無意識に違和感を感じているということだ。
怒りというエネルギー”使って良い場面”(自分が不幸にならないという意味で、使って良いという意味)があるならば、それは何かを守る時、人を守る時だ。
何が怒りの原因だったのか。自分を客観視して理解することも大事。脳は答えを出さないと気が済まないからだ。
仏教の始まり、”ブッダの生涯”を調べれば、それはもともと自分を救うためにできたものだという事がよくわかる。人はあらゆる事象に反応してしまう生き物だが、反応せず平静でいられるようにするために。
ではどうしたらいいのか 自分自身をコントロールする術を求めよ【”怒りの章”】
怒りのループに苦しむものは、まず怒りそのものが自身の満たされなさ、欲求不満に対する弱さから来ていると、その状態を認め、怒りの状態が自分自身を破壊していく状態、重くしていく状態と理解しよう。
上記でもお伝えしたように、怒りのという行為には一種の麻薬効果的な側面があり、脳内中毒により怒りのループから抜け出せない状態になってしまうことがある。それは脳の混乱によって引き起こされている。そして怒りは脳にとても負荷がかかる。その怒りによって、さらに他の種類の脳による病気、”鬱”、”躁鬱”、”自律神経失調症”、などを引き起こしてしまう場合もある。
そして脳は同じ事の繰り返しが好きだ。脳は、一度脳内に出来たこのループを中々手放してくれない。
瞬間的な反応に対して、反応しないという訓練が必要になる。瞬間的な欲求に対して反応しない脳を作っていく必要がある。
脳の混乱を鎮め、脳を綺麗に正常に変化させていくには古来より伝わっている瞑想という方法がある。というより、そもそも瞑想とはそのためのものである。
瞑想の1歩として、
呼吸は吸う時3〜5秒、吐く時5秒〜8秒程度かけ、ゆっくり呼吸する。それを踏まえて、目を閉じ、以下を行う。
- 息を吸う時、風が唇の上や鼻の入口辺りをくすぐっていく感覚を感じる(実際には見れないが、鼻入口あたりを見ているような感じ)
- その呼吸(風)が脳に行き頭上(おでこのあたり)に流れていくイメージをする。
- 今度は逆に呼吸が頭上から鼻へ降りていく、吐き出していくイメージをしながら息を吐く。
- 吐き出す時にも鼻の入口あたりを呼吸(風)が通る感覚を感じる(実際には見れないが、鼻入口あたりを見ているような感じ)
それを1日のうちに数分でもいいから繰り返し、脳を癒してあげる時間を作ることだ。瞑想はこの記事で詳しく解説している。
そして、突発的な怒りを抑えられない時や、怒りが収まらない、許せないという思いが続く時があるなら、頭の中でお経を唱える。簡単な言い方をするなら、お経の複雑な音色で脳を誤魔化すんだ。おすすめは、光明真言「おん あぼ きゃべい ろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」。これを”ゆっくり息を吐きながら”頭で唱える。空海も重視していたと言われる光明真言は波動の高い言葉かつ、その音色で意識を落ち着ける。一度YouTube等でリズムや音色を聞くことをおすすめする。この言葉を覚え、怒りの瞬間の度に、挟み入れることで、脳のクセを変えていくことができる。
脳は可逆性があるということがわかっている。可逆性とは別の状態に変化したものを、元の状態に戻すことができる性質のことだ。
ブッダ、お釈迦と呼ばれる人間や仏教を広めた者達がなぜ怒りを制御せよと言うのか。それはその人たちも怒りに悩み、それを変えたいと思ったからだ。変わりたいという心があれば、変わっていける。怒りなんて一瞬の砂埃のようなもので、風が吹けば飛んでいく。怒りそのものも脳が生み出す幻だと気づいていく。変わっていける。
怒りという欲求の沼を抜け出し、軽やかな自分に向かいたいという気持ちがあるなら、変わっていける。
今はまだ明らかでないが、もう近づきつつある”苦しみのない、新地球”に向かうことができる。
性欲が欲望になってしまうと【”性欲”の章】
まず前提として色情を持って人を見ることは、とてつもない重いエネルギーを持っていると自覚することだ。そして、性欲が欲望になっている状態も、またとても重いエネルギーを持っており、その先には脳内中毒によるループの沼と虚しさしかない。
なぜ性欲から解放されたいのか?と聞かれた時に、この欲求の先に苦しみしかないことを心の奥で理解していて、そして、欲求の沼から抜け出し、エネルギーを軽くありたい者だという前提で話す。
現代ではコンテンツ化され、そういうものを見て欲を解消するのは当たり前だという風潮にされている(特に男性)。
だが、私たちが目指すべき場所は欲からの解放である。
人はストレスを感じると、その防衛反応として性欲に向かってしまう人もいる。そして、大事な人との愛を体現化するためにあったはずの性欲がその名の通り”欲望”と化してしまう場合がある。
脳は楽で簡単に手に入る報酬が大好物である。そのため、この中毒のループにハマるのはたやすく、ましてやコンテンツ化され、現代ではそれは”当たり前”のような空気にされている。
脳は同じ繰り返しが好きだという特徴がある。新しい(勉強や筋トレ等)ことを始めた時は脳が拒否反応を起こし続きづらい。しかし、1ヶ月、2ヶ月と一定の継続の”ヤマ”を超えると脳が学習し続けられるようになる。
そんな脳が、この中毒のループにハマるのはたやすい。快楽という安易な報酬であることに加え、現代ではコンテンツ化されていることで入り口は広い。
また、現代社会ではストレスが多く自暴自棄になってしまう人もいる。
そしてストレスの多い社会の捌け口として日常的な中毒となった人はこの”重い”欲望に囚われの身となる。
脳は同じ刺激では飽きていく。欲望は再現をしらなく伸びていく。欲望の伸びと共に人の心の闇と影も伸びていく。
まず、この欲望の先には何の生産性もなく、虚しさしか残らないということに気づいてほしい。
ではどうしたらいいのか 自分自身をコントロールする術を求めよ【”性欲の章”】
こちらも怒りと同じく脳に対して中毒性がある。そして、自己破壊に陥ってしまったり、突発的な欲求という共通点がある。なので基本的に怒りの項目と同じ内容になる。
瞬間的な反応に対して、反応しないという訓練が必要になる。瞬間的な欲求に対して反応しない脳を作っていく必要がある。
また、自己破壊に陥ってしまう者の場合。悩んでいる者は変わっていける。心の中に違和感を感じているなら、変わっていける。悩んでいる時点で、他の人よりあなたは心があるということだ。ただ、生き方がわからなかっただけだ。自分で認めてあげる必要がある。どんな恵まれた人も、恵まれているように見えても、どんな素晴らしい行いをした人でも他人に100%認められているという気持ちになれた者はいない。結局はひとりなんだ。自分で自分を整えていけるようになっていく必要がある。
反応しない脳と、自分のエネルギーを自己破壊に陥らさせずに平穏な自分自身を感じていくように変えていく必要がある。
そのためにはやはり、瞑想が必要になる。
怒りの項目と同じ文言になるが、瞑想の1歩として、
呼吸は吸う時3〜5秒、吐く時5秒〜8秒程度かけ、ゆっくり呼吸する。それを踏まえて、目を閉じ、以下を行う
- 息を吸う時、風が唇の上や鼻の入口辺りをくすぐっていく感覚を感じる(実際には見れないが、鼻入口あたりを見ているような感じ)
- その呼吸(風)が脳に行き頭上(おでこのあたり)に流れていくイメージをする。
- 今度は逆に呼吸が頭上から鼻へ降りていく、吐き出していくイメージをしながら息を吐く。
- 吐き出す時にも鼻の入口あたりを呼吸(風)が通る感覚を感じる(実際には見れないが、鼻入口あたりを見ているような感じ)
瞑想はこの記事で詳しく解説している。
そしてここも同じになるが、突発的な欲求や、ストレスを受けた時に、自暴自棄な気持ちになってしまう際には、お経を唱える。お経の音色で脳の意識をそらす、浄化する。おすすめは、光明真言「おん あぼ きゃべい ろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」これを”ゆっくり息を吐きながら”頭で唱える。空海も重視していたと言われる光明真言は波動の高い言葉かつ、その音色で意識を落ち着ける。一度YouTube等でリズムや音色を聞くことをおすすめする。この言葉を覚え、迷いが生じた時にその度、挟み入れることで、脳のクセを変えていくことができる。
欲求のループにハマっている人自体は、間違いに気づいていない状態(眠っているだけ状態)の場合も多い。これで気づいたり、本当は変わりたいという心が少しでもあるものは変わっていける。
欲求の沼を抜け出し、軽やかな自分に向かいたいという気持ちがあるなら、変わっていける。
今はまだ明らかでないが、もう近づきつつある”苦しみのない、新地球”に向かうことができる。
まず、問題なのは、現状のこの世の仕組みである。私は全エネルギーで伝える。この欲がコンテンツ化され、あまつさえそれが”大人の嗜み”かのような現状は間違っていると。
”アダルト〜”と呼ばれるコンテンツ、意味としては大人向けということだが、なぜ人は大人になることで愚かになってしまうのか。なぜ人を愛のないまま欲望の対象として見て、それをお金儲けとする考えが”大人”なのか。
”大人”という言葉を辞書で引くとこう書いてある「大人とは十分に成長した人。考え方や態度が十分に成熟していること。思慮分別があること」。これを踏まえて大人と言われてイメージする人どんな人だろうか。子供がそんなこと(アダルト〜)を思いつくのか。子供の方がよっぽど大人だと思わないか。
そんな真実を子供に言えるのか。私たち大人はこんなものを見たり、お金を稼いだり欲を満たしていると。更にはテレビや雑誌等メディアもそれをポップに表現してみたり、お笑いとミックスしコンテンツにする。なぜヘラヘラとしていられるのか。そんな現状の世界で子供はどんなふうに育つだろうか。
大人になるとはなんだろうか。なぜキリストが子供はそのまま神の国(新地球)に行けると行ったのか。
人は何のために生きているのだろうか。なぜ、人は生まれ、職に就き、生涯を過ごすのか。それがなぜ、性を売るものも”商売”としてみなされるのか。こんな悲しいことはないと思わないのか。
苦しんで抜け出したいという思いがあるなら”新地球”はそういう人にこそ救いがある
あらゆる状況から苦しみのなかでそういう”商売”につくことなってしまった者もいる。だが、もし苦しんでいる心があるならば、2025年と迫る”新地球”はそういう人にこそ救いがある。そして、本気で抜け出したいと覚悟せよ。
人々の心の中の”闇”がそういう商売を生み出している。そして、それを餌にし、コンテンツ化するものがいる。今の世界は、あまりに狂っている。
あらゆる場所において性を煽るような描写が含まれ、人々を重くしようと試行錯誤している。
これは少し胡散臭いような話に聞こえるかもしれないが2024年5月現在時点、あなたがたは、意図的にあらゆる手を使って性に関しての考えや、意識を狂わせようされている。陰謀論だと思うか、被害妄想だと思うか。そう思う方が”健全”かもしれない。だが、ネット広告だけを見てもここ数年のおかしさを感じている人はいるはずだ。自分の閲覧履歴に基づいた広告(ターゲティング広告)と言われているが、明らかに自分と関係ないおかしな漫画広告、通販サイトの商品群として出てくるものも性を感じさせるものに”何故か”なっていたりする。あらゆる履歴を抹消している状態の方がそれは顕著に出るかもしれない。それはなぜか。人々を堕落させ、重くいてくれることで、助かる存在がいる”かもしれない”と伝えておく。そして、人々が性に囚われていてくれる方が、お金を動かし経済を動かす為に安易かつコストがかからない。
目覚めよ、自分のために
この2重苦に少しでも苦しさを感じ、心重くしていたり、痛めている者は、変わっていける。
今はまだ(2024年5月時点)意味が分かりづらいと思うが、2025年と共にもう近づきつつある、キリストがかつて伝えた、”苦しみのない、新地球(キリストの言い方で神の国)”に向かいたい思うなら、必要になる。
なんだそれ?と思う者も、気づく時は近い。
キリストはこう語っている。
貧しい人たちはさいわいだ、神の国は彼らのものである。飢えている人はさいわいだ、飽き足りるようになるからである。泣いている人はさいわいだ、笑うようになるからである。