経済とは人々にとってなんだろうか。
当然のように大事だと思いこみ、さも大事な卵のように、宝物のように。
このままでは経済が。経済が、経済が良くなれば・・・。
値上がりしたサービスを見て落胆する人を見てこういう「まあ、慈善事業じゃないんだから」
なぜ慈善事業ではいけないのか?生活のため?経済のため?経済とはそんなに大事なものだろうか。人にとって。
いつから「ビジネスのため」だとか「経済ため」だという言葉が正しいと思うようになってしまったのか。
もちろん、今の社会で生きていくためには仕方がない。
そして、他の生き方を知らない。忘れてしまっている。
日本人よ、あなたたちは本当にそんな人々だったのか。
災害で救助の進行が困難を極めるニュースでは 生活排水を減らし協力を求められる一方で、営業停止を求められ経済的損失が発生。
また、救助をするための機材があるのに、費用がかかるため難航をきたす。 人の救助よりも経済を優先するのが今のこの地球の人たちの限界だ。
日本人よ、あなたたちは本当にそんな人々だったのか。
困っている人をみんなで助けるために、それができない理由がお金になってしまっていないか。そうではなく、純粋に困っている人をみんなで助けるために行動できたのが日本人ではないのか。
自然を愛し、愛そのものを愛し、神(愛)と共に生きていると感じていたのではないのか。
人々が神(愛)を信じていた時代は終わり、その玉座には代わりに経済が座っているのか。
経済とは一体なんなんだ?いつから私たちの間に存在していたのだろうか。そんなに大切なものだったのだろうか。
日本人、神の子としての記憶を思い出す時が来ている
明日、あらゆるシステムが破綻して全ての便利なサービス、お店が停止したらどう思うのか。
その世界を見渡してみたときに不便だと思う一方で、心の自由はあると思わないか。
病院も停止してしまっては不安だと思う。だが本当に今の世界にも安心があるのだろうか?
病気は作られ、ウイルスから身を守るためのワクチンさえ安全に疑問を持つ時代。
お金のために捻じ曲げられている全てのことが消えたら、本当はこの世に苦しみなんてあるのだろうか。
必要な医療や休養を受けることはお金がかかり、保険で病気に備えることにもお金がかかる。
もちろん、お金を払えば親切な笑顔やサービスは受け取れるだろう。
だが、その姿が本当に本来の日本人なのだろうか。
もちろん現状でも多くの人が自分のできる範囲で自分のできることをしている。
だが、全体像として見た時に日本人は本来の姿をしていないのではないだろうか。
お金のために捻じ曲げられている全てのことが消えたら、日本人はどう生きていくのだろうか。
本来の心を取り戻す時が近づいている。
資本主義によって競争がおき、急速に物質的な豊かさや科学の進歩が起きた
だが、この地球は生まれた時より、最後の進化は愛でまとまらないとその先に進めないようになっている。
たとえば人々が使う電化製品。スマートフォンなどに使われているバッテリー。劣化しない技術があったとしても、数年で寿命が来るように作られている。
性能や技術的な進化は頭打ちになりつつあり、小出しにモデルチェンジして世の資源を使い無駄な製品を作り続ける。
お金に縛られ経済を回すために、完璧な製品を目指し作ることもできない人々。
医療においても。人の苦しみや、不便、病気はお金になる。それゆえに、根本解決はせず、ある一定の技術進歩から進まないようになってしまう(させられてしまう)。
研究者は純粋にこの技術で救われる人がいるという思いのまま開発を続けても、世に放たられる時には形を変えられてしまう。
結局お金次第になっていく。
世の中のものが完璧へと向かっていくとどうなるのか
例えば、あらゆる物(医療、製品)が完璧に向かっていくと想定してみる。完璧なイデアへと。
ここでいう完璧とは医療ならその最高地点は病気を一瞬で治せるなどの全ての病気の克服、製品なら劣化せずに長く使える技術や製品。
例えば老いも病気も全て治してしまう技術があったなら、医療を分野ごとに細分化したり、薬などで金を稼ごうという発想自体起きないだろう。
もちろん歪んだ製法で生み出されたものではない前提の話だが、もしそのような技術がありそれが世に出たとしたら、細分化された医療や製品、開発された薬、それに携わる世界中の人々は現状の社会システムだとどうなるのか。
もちろん、経済を回すためにこれまでの現状はそうはならない(させない)のかもしれないが、仮になったとすると、では一体どうやって経済を維持するのか?という地点に行き着く。
このように辿っていくと、お金というものを過ぎ去らなければそれ以上の人類の進化は望めない。
だがもしそうなった時、人々は、日本人はどうやって生きていくのか。
医療に携わる人、ものづくりが好きな人、花を育てるのが好きな人、自分の仕事に純粋に愛を注げるのではないか?
そうなった時、本当の心の自由を持つことができ、本当に自分が愛を注ぎたいものにそそぎ、自分の携わることは完璧を目指すことができるのではないだろうか。そして本当に心から人を思いやり、人と接することができる。
人類としても進化していくことができる。
最終的には愛でまとまらなければ、全てのものが完璧に近づかないということに気づかなければならないようになっており、愛に辿り着くようになっている。
その決断が迫られることはこの地球が誕生した時から決められており、言い伝えられている通りである。
闇は
この世界の勢力を光と闇に分けるなら、それは時が進むにつれてさらにわかりやすくなっていく。
闇の作り出すものは、一瞬魅力的に見え、光と見間違えてしまう人もいる。
闇はこの現状の世界のお金が無価値になってしまうことを恐れている。何度も言うように人の苦しみはお金になる。闇はこの世界に苦しみや不便や優越感を作ることで、お金を魅力的な物として輝かせ、その苦しみを解決するために人はお金を欲する。
お金で支配を望むものは、上記した人類の進化は望まないだろう。完璧に近づくことを遠ざけ、終わりが来ないように抵抗している。
違う形で、人々を支配する計画を考え、今までの仕組みを永続させるための行動をしている。
だが、新たな時代の訪れと共に、お金というものの価値は変わる。
神の子、日本人が持っている対抗手段
ある国の政策のおかけで今度は日本はどういう経済活動をしていくべきかだとか、新たな貿易協定を組むべき〜などと言っている場合ではない。それは自ら闇の作ったシステムの奴隷になろうとしていないか。気づくべき時が来ている。これまで十分日本人は苦しんだのではないか。
日本人が持っている対抗手段、これから提示される新しい生き方の指針となっていくもの、それははお金に縛られない純粋な愛の価値観である。
イエスキリストがなぜ「お金持ちが神の国に入るのはラクダが針の穴を通るようなものだ」と語ったと言われているのか。
それはあたかも審判者というような者がいてその者が入らせないからではない。それ以前に自らが入りたいと思えないからだ。この世で富や優越感に対して執着を持ち重くなってしまった者は、平等で、心の自由があり、既得権益もなく進歩した技術のある神の国(新地球)には行こうという覚悟を持つことができない。
せっかくこの地球でたくわえた富と栄光を捨て去るのがおしくなってしまうからだ。
エゴや欲を捨て愛と共に生きる。それができるのか問われる時が来る。
本来持っている純粋な心、それを思い出し実現し新地球へと向かう模範となれるのはまず日本人であり、地は用意されている。そしてたねが撒かれることで大きな実を結ぶ。
最後の時、信じるものは救われる。